2019年の大河ドラマのタイトルと主演のお二人が発表になりましたね!
タイトルは
「いだてん~東京オリムピック噺~」
脚本は宮藤官九郎さん、主演は中村勘九郎さんと阿部サダヲさんのWキャストで、リレー形式の物語になる様です。
中村勘九郎さん演じる「金栗四三さん」は日本初参加オリンピックに出場したたった二名の選手の1人
阿部サダヲさん演じる「田畑政治さん」は、1964年の東京オリンピック招致に尽力された方
放送翌年の2020東京オリンピックが何倍にも楽しめる大河ドラマになりそうで、今からワクワクします!
脚本のクドカンさん初の「実在のモデルがいるドラマ」となる
「いだてん~東京オリムピック噺~」
主役モデルとなっている、金栗四三さんについてお届けしたいと思います。
金栗四三さんの経歴
金栗四三さんのプロフィール
生年月日:1891年8月20日(明治24年)
出身地:熊本県玉名郡春富村(現・和水町)
没年月日 1983年11月13日(昭和58年)(満92歳)
身長:170㎝
体重:64㎏
出典:wikipedia・google
(お名前の読み方が、文献により「かなくり」と「かなぐり」、「しそう」と「しぞう」
と統一されていないようですが、NHKの番組HPでは「かなくりしそう」と表記されていたので、それを採用しました。)
金栗四三さんの経歴
1981年(明治24年)8月20日 玉名郡春富村(旧三加和町、現和水町)に父信彦・母シエの四男として生まれる。
四三というお名前の由来は四男四女の七番目に生まれ、その時お父様が四三歳だったから。
昔はこういった「何番目に生まれた」的な由来のお名前が多くて、なんとなく、味気ないなーなんて思ったりするのですが、
お父様の年齢とリンクしていて、四(男)+三=七番目なんて、ちょっと格好いいですよね!
吉地尋常小学校(現和水町春富小学校)を卒業後、玉名北高等小学校(現南関町)に入学
この時、金栗四三さんは往復12㎞の通学路を毎日走って通っていたそうです。
インタビューなどで「マラソンを始めた時期」について聞かれると、金栗四三さんは
東京高等師範の2年生の時からです。その基礎を作ったのは、高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います。
と答えたそうです。
往復12㎞の徒歩通学なんて、ちょっと今の日本では想像つかないですけれど、オリンピックで活躍するアフリカなんかのマラソン選手の方だと、最近でも日常生活が「マラソン」であるといったエピソードはありますよね。
こういう「生活に密着した基礎体力」みたいなものが、現代先進国のスポーツでは、なかなか得がたいものになってしまっていますね。
1905年(明治38年) 玉名中学校(現玉名高校)進学
1910年(明治43年) 東京高等師範学校(現筑波大学)入学
この時、東京高等師範学校の校長であり、講道館柔道創設者である、嘉納治五郎氏に才能を見いだされた金栗四三さんは
日本オリンピック初参加に向けたマラソン国内予選会で2時間32分45秒を記録。
これは当時の世界記録を27分も縮める大記録です!
当時のマラソンは今より少し短い、40.225㎞だったそうですが、現在の女子ジュニアの世界記録
2時間20分59秒(シュレ・デミセ選手/エチオピア)
と10分位しか違わないんですよね。
コース道路の整備状況や、マラソンシューズ、サポート体制、なにをとっても恐らく雲泥の差があった当時の状況で、この記録は
お見事!というか、神技!
初のオリンピックに、大きな期待を背負ったんですね。
1912年(明治45年) 第5回ストックホルム大会に日本人として初出場
嘉納治五郎氏が選手団団長を務め、短距離の三島弥彦選手とマラソンの金栗四三選手とたった2人の選手で初参加したオリンピックです。
残念ながら、この時、金栗四三さんは、日射病で途中棄権となってしまいました。
当日は、最高気温40℃という猛暑に加え、
・日本からスウェーデンまでは、船と列車で20日間かけての移動
・時差プラス白夜による睡眠不足
・馴染みのない海外食
・手配ミスで、マラソン当日に迎えがこなくて、競技場まで走って行った
等々の悪条件が重なっての無念の途中リタイアですが、これで金栗四三さんは「マラソン最長記録」を手にいれるんですね。
1914年(大正3年) 玉名郡小田村(現玉名市小田)池部家の養子となり、4月10日春野スヤさんと結婚
東京女子師範学校などで地理の教師として教壇に立ちながら、選手としてもトレーニングを続けます。
1916年(大正5年)ベルリンオリンピック 開催中止
選手として、1番脂ののった時期に開催予定だったベルリンオリンピックでは、メダルが大いに期待されていましたが、
第一次世界大戦勃発で開催中止となってしまいました。
1920年(大正9年)アントワープオリンピック マラソン代表(16位:2時間48分45秒4)
1924年(大正13年)パリオリンピック マラソン代表(32.3㎞地点で途中棄権)
このバリオリンピック後は、後進の育成に尽力されます。
1936年(昭和11年)上京し東京オリンピック開催に奔走
先導指揮をとり、オリンピック招致に心血を注がれた恩師、嘉納治五郎氏の死去もあり、
この時は日中戦争が泥沼化していた政府によって東京オリンピックは返上されてしまいました。
1945年(昭和20年) 熊本県体育会(後の熊本県体育協会)をつくり初代会長に就任
1983年(昭和58年) 11月13日 92才で永遠
金栗四三さんの功績~遺したもの~
金栗四三さんの功績として、いの一番に出てくるのは、なんといっても
箱根駅伝
ではないでしょうか。
金栗四三さんは、ストックホルムでの敗因を分析、考察され、
・真夏の房総海岸での「耐熱練習」
・心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニング
等を考案されました。
そんな考察結果のひとつとして、金栗四三さんは
「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」を唱え、
日本人のメンタル強化と孤独な陸上競技練習に「チーム」という意識を持たせるという考えから、
駅伝の始まりとされる
東海道駅伝徒歩競走
学生ランナーを集め、“たすき”という布をバトン代わりに京都三条大橋から東京日本橋までの東海道516km間をリレーで繋ぐ“駅伝”
を開催します。
この時は金栗四三さん自身、関東組のアンカーとして出走されました。
そうして、ここからあの
「箱根駅伝」
が生まれたと言うわけです。
が、実は、この「箱根駅伝」は金栗四三さんの最終目的ではなかった様です。
金栗四三さんはその先に
「アメリカ大陸横断駅伝」
というとてつもない構想をもっていらっしゃいました。
そして、「箱根駅伝」は
大学生ランナーによるアメリカ大陸横断駅伝の“予選会”
という位置づけで開催されたんだそうです。
金栗四三さんの誤算は、この「箱根駅伝」が予想外の人気を博した事。
残念ながら、「アメリカ大陸横断駅伝」は未だに実現されていません。
しかし、この金栗四三さんの想いはしっかりと受け継がれていました。
アスリート兼プロランニングコーチで、超ウルトラマラソン元世界王者の井上慎悟さんが
金栗四三さんの「アメリカ大陸横断駅伝」を実現させるべく、勢力的に活動されています。
くわしくはこちらのサイトをご覧下さい!
金栗四三が想い描いたアメリカ大陸横断駅伝を実現するために。
マラソンシューズの原点は「金栗足袋」
金栗四三さんが選手だった当時、「運動靴」なんてものはなく、「地下足袋」の様なもので走っていました。
オリンピック出場後、金栗四三さんはこの足袋の改良に取り組みます。
東京の足袋屋ハリマヤ黒坂親子に頼んで足ハゼ(留め金具)をやめ、甲にヒモが付いた形に変わっていきました。
これは戦後まで多くの選手が使用する事となり、マラソン
シューズの原点ともいえます。
出典:広報たまな特別号 Vol.5(玉名市)
詳しくはこちらの記事で!
「嗚呼、HARIMAYAのシューズ」
前年ながら、現在では入手できないそうですが、金栗さんの故郷である「玉名市立歴史博物館こころピア」に所蔵されているそうです!
常設展示一覧には載っていませんでしたが、今回の大河ドラマを受けて、企画展示等が行われる可能性ありますよね!
超余談!ですが、運動神経に恵まれないくせに、負けず嫌いだった自分が、小学生の頃、徒競走で勝てない事が悔しくてビービー泣いていたら、父が地下足袋買ってくれた事がありました。
もちろん、陸上用の物じゃあ無く、某「わーくまん」とかで売ってるヤツ。
もっのすごーく恥ずかしかったけど、それよりも「勝ちたい」が勝ってしまった愚かな小学生は、それを履いて走ったわけですが、なんとマジで!一等賞でした!
その時に、なんとなく「走るコツ」みたいなものが、「地下足袋」越しに掴めて、それ以降は普通の運動靴でも早く走れる様になりました。
そんな栄光も怠惰な中学生活で台無しにはなりましたが、小学校時代はけっこう「いだてん」だったいい?想い出です。
父から、金栗四三さんの名前を聞いた事はありませんでしたが、きっと知っていたんでしょうね。
前人後人未踏のマラソン最長記録保持者!
日本人初のオリンピック選手としてストックホルムでのオリンピックに出場するも、無念の途中棄権となってしまった金栗四三さんですが、
半世紀の時を経て、ゴールを果たします。
当時、意識を失った金栗四三さんは、近くの農家の方に助けられ、目が覚めた時には翌日になっていました。
その為に金栗四三さんの「棄権」が大会本部に伝わらず、大会記録としては「失踪」という扱いになりました。
「消えた日本人」としてスウェーデンでも語り継がれてきたエピソードですが、
1967年にのストックホルムオリンピック55周年記念式典に招待され、
1967年3月21日に当時の競技場を走りゴールテープを切った金栗選手!
日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する
というアナウンスが流れました。
この時、金栗四三さん、75歳。
コメントは、
「ゴールする間に孫が五人も出来た」
でした!
この記録は、そうそう破られそうにありません!!
そして、更に時は流れ、ストックホルムオリンピック100年を記念し、
当時とほぼ同じコースで開催されたマラソン大会に、金栗四三さんのひ孫である蔵土義明さんが出場!
曽祖父が走れなかった残りの部分を走ることができた
と笑顔でゴールし、見事完走されました!(記録は約4時間25分)
「マラソンの父」と呼ばれる金栗四三さんの経歴や功績を調べてみましたが、
車が手放しで乗れちゃうかもしれない今の時代を生きる自分にとっては、全てがドラマチックすぎて
まさに「事実は小説より奇なり」
こんなに盛りだくさんなノンフィクションが、稀代のクリエータークドカンさんの手に触れて、
どんな物語として蘇るのか!!
これは、再来年の大河ドラマが楽しみです!
最後までお読み頂き、ありがとうございます!